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[2] 太田道灌の「兜塚伝説」

投稿者: 高遠藩 投稿日:2020年11月 4日(水)21時31分10秒 214.232.151.153.ap.dti.ne.jp  通報   返信・引用

太田道灌の「兜塚伝説」
 前項に記した「太田道灌の兜塚(鶴見区駒岡町2482)」が置かれる場所は、鶴見寺尾図では『泉池(現・三ッ池公園)』の北東に書かれた『田』位置で、『本堺堀』に沿った場所に重なっている。

 駒岡に残る「太田道灌の兜塚伝説」は、1457年に江戸城を築いた太田道灌が、その支城を「加瀬の台(現・川崎市幸区)」にも築こうと、ここで一夜を過ごした際、「一羽の白鷲が道灌の兜をさらって飛び去り、南西の地に落とす夢」を見たため、それを不吉として「加瀬の台」での築城をあきらめ、この地を「夢見ヶ崎」と名付けるとともに、鷲が兜を落とした場所に自身の兜を埋めたので、その地が「兜塚」と呼ばれた、というものである。
 実は、駒岡の「道灌の兜塚」位置には、それよりずっと古くから「兜形の円墳(径35m・高5.8m)」が築かれていた。近年(1931年頃)になって、これが長慶天皇(1378年-1363年)の陵墓ではないかとの説が起こり、発掘調査を行なった結果、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅鍍金の金環などが発見され、古墳時代後半(6世紀頃)の古墳と推定されるに至っている。

 道灌が「夢見ヶ崎」と名付けたという「加瀬山」は、長さ約750m・幅約150m・標高約35mの丘で、かつてはここから東京湾が一望できたという。多摩川と鶴見川に挟まれ、鎌倉街道が近くを走るこの丘は築城に格好の場所であったが、この地にも太古より続く人々の長い暮らしの歴史があった。
 

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(みうけん) 高遠藩さま
詳細な情報ありがとうございます!
もはやこれだけで立派な記事になっていますね。
鶴見区あたりは行こう行こうと思っており、その中に兜塚や三ツ池も入っています。
鶴見区、港北区あたり行くときにはこの投稿を読みながら見聞させて頂きます。




[1] 太田道灌の「兜塚伝説」

投稿者: 高遠藩 投稿日:2020年11月 4日(水)21時25分44秒 214.232.151.153.ap.dti.ne.jp  通報   返信・引用

 駒岡に残る「太田道灌の兜塚伝説」は、1457年に江戸城を築いた太田道灌が、その支城を「加瀬の台(現・川崎市幸区)」にも築こうと、ここで一夜を過ごした際、「一羽の白鷲が道灌の兜をさらって飛び去り、南西の地に落とす夢」を見たため、それを不吉として「加瀬の台」での築城をあきらめ、この地を「夢見ヶ崎」と名付けるとともに、鷲が兜を落とした場所に自身の兜を埋めたので、その地が「兜塚」と呼ばれた、というものである。
 実は、駒岡の「道灌の兜塚」位置には、それよりずっと古くから「兜形の円墳(径35m・高5.8m)」が築かれていた。近年(1931年頃)になって、これが長慶天皇(1378年-1363年)の陵墓ではないかとの説が起こり、発掘調査を行なった結果、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅鍍金の金環などが発見され、古墳時代後半(6世紀頃)の古墳と推定されるに至っている。

 道灌が「夢見ヶ崎」と名付けたという「加瀬山」は、長さ約750m・幅約150m・標高約35mの丘で、かつてはここから東京湾が一望できたという。多摩川と鶴見川に挟まれ、鎌倉街道が近くを走るこの丘は築城に格好の場所であったが、この地にも太古より続く人々の長い暮らしの歴史があった。
 例えば、加瀬山の南東(旧・日吉出張所近辺)には、縄文と弥生の二つの時代特色をもつ「南加瀬貝塚」があった。
 また、加瀬山の西端(現・白山幼稚園の南西)には、4世紀のものとされる「白山古墳」(全長87mの前方後円墳。ガラス玉・鉄刀・三角縁神獣鏡などが出土。鏡は京都・山口・福岡でも同系のものが出土し、当地の豪族が大和朝廷に朝貢した際の返礼品として朝廷から賜ったものと考えられている。)が、さらにその西隣には、「第六天古墳」(石棺には数種の副葬品と11体の男性が埋葬。)があった。
 そして12世紀には、美しい秋草文が施される骨臓器(現・国宝指定)を埋葬に使用できるほどの有力者がいた。

太田道灌と亀之甲山陣城跡
 鶴見寺尾図の『本堺』は、終点の『台地(現・小机城跡)』から再び細い『本堺堀』に続き、『出入窪(矢の根)』を過ぎて一旦『ミチB』に接続した後、『諏訪(横浜労災病院)』と書かれた『二層の建造物』の脇を通って『鶴見川』に合流する。この合流地点は、現在の「亀甲橋」位置にほぼ重なっている。

 「亀甲橋」を渡った新羽町側には、1489年に大田道灌が陣を張った「亀之甲山陣城跡(新羽町亀甲橋付近)」がある。
 「小机城跡」の項に記したこの戦いを絵図に重ねて考えるなら、「小机城(絵図の『台地』)」の矢野兵庫助(長尾景春方)と「亀之甲山」の太田道灌(山内上杉方)の2陣は、一見、鶴見川を隔てて睨み合う格好だが、「舟のミチ」を利用するなら、双方はともに鶴見寺尾図時代の『水路』で繋がっていたということにもなる。

 また「現・矢の根」位置には『出入窪』と記されるから、ここに『台地(小机城跡)』へ続く「抜け道」か「地下道」の出入口があったとも推測できる。さらに『台地』は、『本堺』と『ミチB』にも繋がっている。絵図の『ミチ』を掌握すれば、「小机城」への物資補給を断つこともできただろう。
 実際、「絵図」の『本堺』に沿った現在の六角橋・神大寺・羽沢一帯は、太田道灌の小机城攻めの際、通り道となり、戦場ともなったと言われている。また絵図の『本堺堀』沿いで、『泉池(三ツ池公園)』と『阿弥陀堂(南加瀬小学校)』の間にある『田(現・上末吉小学校・鶴見区上末吉5丁目)』位置にも、「太田道灌の兜塚」(鶴見区駒岡)が残されている。
 1334年の鶴見寺尾図の時代から1489年の小机城攻めまでの約150年間に、当地の地形にどれほど手が入ったかはわからないが、大きな変化がなかったとしたら、この戦いは、古地図にある情報を手中に収め、かつ小規模な水軍を持った陣が有利となったかもしれない。

 小机城を攻落した太田道灌(おおたどうかん・1432年-1486年)は室町時代の武将で、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣。名は資長(すけなが。持資とも。)といい、道灌は後の法名である。父は資清。
 1457年に江戸城を築き、1476年には山内上杉家の内紛を鎮圧したが、扇谷上杉家の強大化を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言にあい、主君・定正に謀殺された。足軽軍法に長じ、和漢の学や詩歌にも通じたという。
 和歌や詩歌の嗜みがあれば、貴族階級との交流にも有利であろう。特権階級はいつの時代も特別な情報を保有している。また25歳の時に関わった江戸城築城の技術は、のちの軍事における地勢図の読み方や塁の築き方にも役だったはずだ。
 太田道灌の活躍は、その情報収集力と学術知識に負うところが大きかったと感ぜられるが、最後はその才気があだとなり、知りすぎたことを権力者に疎まれる結果となったようだ。
タグ:
鶴見寺尾図舟のミチ・馬のミチ領土



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(みうけん) 高遠藩さま
詳細な情報ありがとうございます!
もはやこれだけで立派な記事になっていますね。
鶴見区あたりは行こう行こうと思っており、その中に兜塚や三ツ池も入っています。
鶴見区、港北区あたり行くときにはこの投稿を読みながら見聞させて頂きます。


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