故・延藤安弘先生を偲んで



カテゴリ:[ 子供/学校/教育 ]


32件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[12] 延藤先生へ

投稿者: 村上 心 投稿日:2018年 2月21日(水)00時18分44秒 h180-200-015-002.user.starcat.ne.jp  通報   返信・引用

先生についてのお話は、西山研の諸先生方、横山先生などから伺っておりました。初めてお姿を拝見したのは、或る建築学会の大会の研究集会でした。初めてお話しさせていただいたのは、名古屋の或る幻燈会でした。一緒に呑んで笑う機会も頂きました。一緒にまちを考える機会も頂きました。永遠に続くのだと感じていた時間でした。もう訪れない時間、信じられません。先生の笑顔は、ずっと側にいらっしゃる気がします。。御冥福をお祈り申し上げます。。。




[11] 追悼文:延藤安弘さんへ

投稿者: 三矢勝司 投稿日:2018年 2月20日(火)21時33分23秒 i125-205-23-140.s10.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

自分のブログに記載したものです。
http://blog.livedoor.jp/mitsuya0223-399/archives/22168250.html



[10] 延藤先生へ

投稿者: 金菱清(仙台の教員) 投稿日:2018年 2月20日(火)21時20分47秒 i220-99-255-159.s30.a048.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

追悼:延藤先生へ

いつもパワフルなので昨年も200歳まで生きるのではと冗談を交わしていました。こんなに突然旅立たれるとはこれっぽっちも思っていませんでした。昔の厳しい先生は知りませんが、私の知る先生はいつもにこやかで情熱的で、音楽が駆け巡りながら物語を紡いでおられました。

名畑ちゃんがこんな面白いことやっている先生がいるんやということで金菱を先生に紹介してもらったのが初めてでしたね。荒浜のシンポジウムで突然コメンテーターとして依頼されて結構辛辣なコメントを投げかけてから、「こいつおもろいやんか」ということで、それ以来のお付き合いとなって、短いながらさまざまな活動に参加することができました。

以下先生との一部ですが思い出として残っております。長者町で一緒にお酒を酌み交わしたり、学院で幻燈会(マジック・ランタン・パーティ)を開いてもらったり、荒浜への温かいまなざし、私どもの研究への深い愛情を注いでくださりました。新著も先生に読んでもらいたかったです。

天国でも忙しく幻燈会を開いていると思いますが、こちらでも「必死のぱっちで」面白いことをしていきますので、たまにはのぞきにきてください。短い間ではありましたがありがとうございました。先生の蒔いた種はあらゆるとこで花開いていますよ。

金菱

2013年12月14日
「明日からの学会前に、延藤先生と名畑さんにお会いする。名畑さんと街を散策しながら繊維街・長者町の再生に携わっている方にお話を聞けた。問屋街が衰退し、駐車場が月10万円の上がりがあるなかで、あえて街づくりにかかわるのは、土地は自分のものではなく、天皇陛下から授かったものと親に聞かされていた。しかも売るとそれまでで楽しくないじゃないですかと考えている。私的に処分できないという対抗論理が街づくりの基軸となっていることを教えていただく。いま都市の木質化プロジェクトも進行中でいろいろ勉強になりました。延藤研究室の関わりが濃密でとても真似できない水準ですね。」

2014年6月25日
今週末、地域プランナー(まち育ての研究と実践)の延藤安弘先生をお招きして地域構想論の特別授業を幻燈会(マジック・ランラン・パーティ)方式で行います。参加ご自由ですのでぜひご来場ください。
東北学院大学泉キャンパス 236教室 6月28日(土)8:50~10:40
延藤安弘先生(建築家、NPO法人まちの縁側育くみ隊代表理事、愛知淑徳大学講師)
安心と幸せを分かちあえるふるさとづくり-これからの地域構想を住まいづくりから考える-
スヌーピーの絵本の中に、「安心ってふるさとがあること」「幸せってシェアリング」のメッセージがある。東北復興にふるさと再生をキーワードにしている地区をとりあげ、その可能性を構想してみよう。安心と幸せを分かちあえるふるさとづくりを構想し、対話し、協働し、実現したコーポラティブ住宅・まち育て物語の中に分け入ってみよう。宮沢賢治のお話に登場する「マジック・ランタン・パーティ(幻燈会)」方式で、絵本から始まる住民主体の集まり住みあう物語を楽しみながら、主題に迫ってみよう。
1 スヌーピーのしあわせな・・・あったかいこいぬ
-チャールズ・M・シュルツ作、谷川俊太郎、角川SSコミュニケーションズ
2 安心ってなぁに?
-絵本『SECURITY is …』(チャールズ・シュルツ,米国)
3 震災復興のなかのしなやかな活動
―ふるさと再生の取り組み(仙台市、荒浜再生を願う会)
5 キモチづくりからカタチづくりへ
-もやい住宅Mポート (熊本)
6 豊かに暮らし続けられる生活環境づくり
-コーポラティブ住宅ユーコート物語(京都市洛西ニュータウン)」

「東北学院大学で、幻燈会レクチャー。スヌーピーから始まり、仙台荒浜,熊本Mポート、京都ユーコート。駆け抜ける!学生約100人は、マジック・ランタン・パーティに釘付け?! 終わった後、女子学生の一人は、コーボラティブ方式で、今関わっている福島のある町でのコミュニティハウスづくりをやりたい、との相談。優れた実践的学習者。
僕をよんでいただいた金菱清先生の研究室には、先生の最新著が目立つ。「震災メメントモリ 第二の津波に抗して」は、目覚ましいコメントがみちあふれている。例えば、飯館村の住民は、加害ー被害の図式に組み込まれないのは、「経済的マイナスから出発するのではなく、スタート地点を別次元のプラスの価値に転換することで、道を切り開こうとする意思がそこにある」からだ、と。「理念としてのコミュニティではなく、この「地域」には住民たちが実際に育んできた「幸せ」が詰まっているのである。」住民は、スヌーピーのいう Happiness を、真底理解している! 帰りの新幹線のなかで、金菱先生の快著に引き込まれている!」

2015年4月17日
「延藤先生に著書『こんなまちに住みたいナ―絵本が育む暮らし・まちづくりの発想』を恵存していただきました。素敵な延藤先生のサイン付です。
いちまいいちまいめくる感覚は、この本で書いている紙芝居をみているような、コンサートにきているような、カフェで絵本を読み耽っているような、そんなメロディーが聞こえてくるような本である。手のひらサイズの持った感覚は昔読んだであろうスヌーピーなどのマメ本と同じサイズで思わず童心に帰ってしまう。無味乾燥でクールなスタイリッシュなものとは真逆の「温かみのある」物語が詰まっている。
本書では延藤先生がよく使う「必死のパッチ」がちりばめられている。この表現がどこまで普遍的かはわからないが、イメージでは、トイレに行きたいんだけど、まだまだ遠く持ちこたえつつそれでも小走りしている、「滑稽さ」と「真剣さ」が同居するような表現だなと思う。生活にはそのような本質がある。したがって、トラブルが絶えない。けれどもそれをエネルギーに変える転向力を同時に捉えている。遠い昔覚えていた身体感覚が蘇ってくるような「こども」の感性を何よりも大事にしている。」



[9] 最高の延藤安弘先生へ(1)長者町編

投稿者: 名畑恵 投稿日:2018年 2月20日(火)19時35分24秒 ntaich129139.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

※『長者町新聞「まちの会所通信 第38号」』に寄稿したものの再掲です。
まちの縁側育くみ隊代表理事の延藤安弘先生(都市研究家・地域プランナー)が2月8日、膵臓癌のため77歳で永眠されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げますと共に、この町で過ごした先生との思い出を書き、追悼とさせていただきます。
●錦二丁目と延藤先生
延藤安弘先生が錦二丁目まちづくり協議会の設立総会に呼ばれ、この町のまち育てに携わり、15年目を迎えようとしています。はじまりの講演から、その熱量にはすさまじいものがありました。錦二丁目の今後の行く末を一枚の階段の構図にし、提起されたのです。「きもちづくり」から「かたちづくり」「うごきづくり」を経て持続可能なまち育て活動へステップアップする構図の中には、「まちタンケン」「住民主体のまちづくり構想づくり」や「まちづくり拠点開設」などがしっかりと刻まれていました。今見ると預言書のようでもあり、地域プランナーとして描いたことを、必ずカタチにしようという気迫に満ちたものです。学習会を重ね、「まちづくり憲章」づくりを経て、2008年5月には、延藤研究室とNPOがまちづくり拠点「錦二丁目まちの会所」を開設しました。拠点を中心に「錦二丁目まちづくり構想2011~2030」を皆さんでつくる過程の中で、人が育ち、活動が育っていきました。今ではまちづくり協議会とNPO協働で「まちの会所」を運営し、様々な部会活動が発展的に運営しています。そしてもう一段、「エリアマネジメント会社」が立ち上がろうとしています。まちで資金を生み出し持続的なまち育て活動を自立運営するしくみです。これがカタチになろうという時に旅立たれてしまいました。志半ばと心を痛めつつも、先生が拠点・構想づくりを牽引してこられ、沢山の仲間が力をつけ、「あとは任せた」と言えるところまで、頑張ってくれました。
●出会いから17年
先生と私は、2001年(当時千葉大学教授)名古屋の東区「橦木館」の保全運動で出会いました。各地でまち育てのパイオニアワークをされてきた先生が名古屋に移住されるというのはセンセーショナルな出来事でした。様々な人が先生の下に集まりました。当時19才だった私はここに集まる大人達がかっこ良くて好きでした。私の市民活動人生のはじまりです。一宮の真清田神社前広場の設計ワークショップ、岡崎市図書館交流プラザりぶらの設計ワークショップ、先生の全国の現場、どれもが学生時代の私には刺激的でした。先生は権威的なふるまいを嫌い、自分自身が現場の人であることを好みました。私がNPOの仕事についてからは、「(関西弁)僕を使い~監督の言うこと聞きます~」ばかり。親の心子知らず、私は重圧に耐えかねて何度も泣きながら喧嘩を売りました。私の喧嘩言葉があまりに辛辣で上等だったため、延藤先生が大笑いし、私もふき出してしまい事態の収束を迎える。そんな日常は、決まって長者町界隈の喫茶店や晩御飯の飲食店で繰り広げられました。忙しくても、コーヒーの時間はたっぷりとりました。食べること、飲むことを本当によく共にしました。私が携わる現場の話をすると、すぐ涙を流されました。それはそれは簡単に。共感の人でした。そんな反応を通して、大事なことをさりげなく学ばせていただきました。「都心をあきらめたらアカン」と何度も仰っていたのも耳に残っています。今ならわかります。都心であってもふるさとと思えるような町を育てようというチャレンジを、日本のために、ここ錦二丁目がリードしなければ。はじめに階段の構図を描いた熱量そのままに・・・。
最高の先生でした!

(一回じゃ書き尽くせないので連載にしようかな・・・)


※写真
1)『げんげんげんきな幻燈会~長者町とアートが浮遊するミライ』(ミッツコーヒースタンドにて2017.08.04)
2)講座のまとめの話をする延藤先生(錦二丁目環境アカデミー第3回2017.12.05)
3)講座のまとめを漢字4行詩と頭韻要約法で(錦二丁目環境アカデミー第3回2017.12.05)



[8] 居心地の良い世の中を育む行動家・延藤安弘先生を偲ぶ

投稿者: 台湾・中央研究院民族学研究所 黄智慧 投稿日:2018年 2月20日(火)16時32分9秒 36-226-160-88.dynamic-ip.hinet.net  通報   返信・引用

 思い起こせば、延藤先生と初めてお目にかかったのは、2010年の8月8日で、場所は台湾南部・屏東県の山の裾にある先住民族の村でした。台湾ではその前年8月8日から大きな台風が直撃し、3日間連続して記録的な豪雨に見舞われました。921大地震に次の広域災害で八八水害と呼ばれました。中部と南部の高山地方に住む先住民族の村々が大きなダメージを受けました。多くの部族が自分の村を離れざるを得ず、政府の作った施設に移らなければなりませんでした。

 水害の1年後にあたり、災害復興に当たったNPO法人や民間団体が復興のあり方について集会を行っていました。私は主催側の責任者でした。すでにスケジュールが決まっていたが、会議が行われる直前に、延藤先生から発表をしたいという申し出を受けました。専門分野が違うこともあり、先生を存じ上げず、一度はお断りしました。先住民の被災者同士が励ましあうことが主な目的の手作りの会合に、日本の大学教授が参加されたいのは、信じられないことでした。しかし、先生から再度お申し出を受けました。15分でもいいから発表させてほしいと、正直なところ日本人学者にあまり見ない図々しい方だと思いましたが、先生の熱意に負け発表していただくことにしました。

 初対面で受ける先生の印象は、はにかんだ笑顔を見せながら、口数の少ない方でしたが、ちょっぴり神秘的な雰囲気を漂わせていました。発表の内容を聞きますと、何と、南部の被災した民族についてではなく、北部の大都会の辺境にある不法占拠から形成した先住民・アミ族の話しでした。最初は、テーマにそぐわない話ではないかと冷や汗をかきましたが、聞いているうちに分かってきました。延藤先生の目には、渓洲という不法な地にプレハブを使って自力で作られた見るに苦しい建築の群れが、とんでもない美しいものであると映っていたのです。また、素晴らしい機能性を持っているものだと、絶賛しておられました。南部の被災した部族たちに参考事例として提供されたかったのでしょう。自らの力で作る建物は本当の家であり、住むには最高のものです。

 その後、2011年に日本の東日本大震災が起こりました。先生が仙台市若林区荒浜への支援組織を立ち上げ、アジア各地の友人に呼びかけ、支援のネットワークを作りました。その一年後、2012年3月11日前後に、機会を得て、私は先生と仙台市の被災した数カ所を共に歩きました。その時には先生の行動力の真骨頂を見せていただきました。

 政府側のカウンセリングをしながらも、民間NPOの活動力を発揮して、荒浜の被災者たちの需要性に耳を傾け、惜しみなく協力していました。黄色のリボンを付け、ふるさと再建の底力を喚起しようという先生の思いが、被災者にどれだけ希望を与えたかと、私は現地でいくつもの感動的な場面に立ち会いました。また滞在しているうちに、運良く延藤先生の魔術のような幻燈会にも参加できました。先生の小柄の体から、火山のような大きな情熱が噴出され、聴衆たちの心の氷山を融け込ませていったと、深い感銘を受けました。

 都会にやってきた先住民族(多くは労働者階層)、不法な建築物が満ちる都市の辺境地、巨大災害に見舞われた廃墟地、そういった世間から排斥されがちなところに対し、人種、階級、国境を越え、先生の目差しには慈悲深いものがありました。そのような場所にこそ無尽な可能性が潜まれていることを、先生は見抜いておられました。勇気をもって行動を起こし、夢を育もうと思えば何でも創生できるのだと。

 延藤先生、どうか安らかに、先生との出逢いを人生の宝物にしたいと思います。




[7] あんきなところ

投稿者: あんきや 蒲池龍之助 投稿日:2018年 2月17日(土)11時06分48秒 pl36905.ag0506.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

しぐれる雪の高山、延藤先生と名畑事務局長をお迎えして、「立ちたくない椅子」に座っていただき、杉を圧縮した家具を見て触ってもらい、私達NPOの事務所にお越し願い、お茶飲みながらお話を聞いてもらいました。これは今年の1月8日の夕方です。雪の高山を二日間歩かれ、講義され、発表を聞かれた後で、お疲れだったでしょうに! 翌日のフェースブックに、そのときの様子がアップされ、私の写真が「延藤」になっていましたが、訂正の手立てを知りません。さらに17年前の事ですが、市内の中心部近くでお年寄りから赤ちゃんまで利用できる「デイサービス」をつくりました。木造平屋で中庭があり、畑にトマトやキュウリなど少し植えることができます。先生に見てもらい、ほめて貰ったことが蘇ります。
 延藤スマイル 忘れません・・・

http://ankiya.jimdo.com/



[6] まちづくりのことばの魔法にかけられて

投稿者: ナカヤリカ 投稿日:2018年 2月16日(金)15時59分11秒 pb6abd1e9.tubecm00.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

その当時、かかわっていたフリースペースの活動や情報紙の発行は、女性、生活者ならではの視点や感性を生かして、さまざまな制限のあるなかにあってもやりたいことができる場、それぞれの活動を応援し合える場、社会につながる場になっていました。

20数年前、高山で開催された延藤先生の「まちづくり幻燈会」は、それまで気にかけることなく無機質だったまちづくりということばが、なんとも人肌のあたたかさを持った魅力をおびたことばに変化した瞬間だったように思います。

そして、家事・子育てのさなかにあって、渇望するようにそれぞれが目的や意味合いを持ちながら集まってすすめてきたテーマが、ちょうど社会の課題とかさなったものであって、つまり自分たちができることをしていたら、それが「まちづくり・まち育て」そのものだった、と気がついたのでした。それ以来、まちづくりのことばの魔法の粉をかぶったように、延藤ワールドの住人でいます。

「お・も・し・ろ・く・や・さ・し・く」とは、ワークショップのまとめで延藤先生にみちびかれて出てきたことばの頭文字で、今も日々のとなりにあります。

また、施設の名前やイベントの命名の際にも延藤ワールドからたくさんエキスをいただきました。この小さなまちを、住んでいるまちがいちばんおもしろいと言い切れたのは、まちづくりの現場に実際に延藤マジックを反映してこられたからにちがいありません。

昨年10月来高された際には、高山の古い町並み・下町散策に同行できました。かつて、こどもまち探険で小学生とまちのたからものを探して歩いたときのように、キラキラと、またより深みを帯びたまちのたからものを見つけて歩き、ワクワクを思い出しました。

1月9日、高山での二日間の日程を終えられ、帰りの列車の時間までのわずかな時間、NPO法人あんきや「ゆいのいえ」に立ち寄っていただきました。ひだまりの会 いのちゆたかに飛騨オリジナルの「ひだまり安心ノート(エンディングノート)」について、また、平成14年にあんきや出会いの場で制作された紙芝居「葉っぱのフレディ~いのちの旅」を、15年を経た昨年12月、「冬のあったか縁日」からステップアップした「課外授業  わくわく夢気球」企画の中で高校生につなぐことができたことなどをご報告。

あっという間に時間が過ぎ、車の窓越しの笑顔にお別れしました。

今となれば、こんなことがあった、こんなふうになったと、こどもがまちづくりのおとうちゃんに、孫世代につないだはなしを聞いていただけたような、これまでの活動の中間報告となる貴重なひとときとなりました。

あれからまだほんの一ヶ月しかたっていませんね。

今頃、どちらの天空をかけてみえるのでしょうか。

まちづくりのことばの魔法にかかった私たちには、延藤先生は必要なときに、ぽやっ!とそばにいて下さるような気がしています。

                                                (飛騨高山まちづくり本舗 ナカヤリカ)



[5] 飛騨高山より心よりご冥福を

投稿者: 田谷孝幸 投稿日:2018年 2月15日(木)18時51分31秒 210.172.220.3  通報   返信・引用

延藤先生と初めて出会ったのは平成8年千葉のとある研修会のことでした。その翌年、1997年7月7日午後7時に始まった「まちづくりの夕べ」において高山発の延藤節が奏でられました。以来、22年余、その間来高は50回を超え多くの市民にまちと人とを繋ぐ大切さを伝えてくれました。先生のフェイスブックの最後の投稿が1月の来高というのも不思議に感じます。その時は、新たなプロジェクトに関わっていただく熱い思いをお聞きしたばかりだったのに。昨年は酒を飲みながら「先生と出会い、私の血液は入れ替わっちゃいました」と、名畑さんと3人で笑って話したことが思い出されます。まちづくりで悩んだときに「先生ならばどうしただろう。どんなことばで表現するだろう」と常に考えていました。道しるべを失った思いです。数多くの学びをこれからに生かさなくてはならないことはわかっています。しかし、今は先生から常に投げかけられた言葉「何を目指すんや」。その言葉をそのまま返します。「何を目指して生きたらいいんでしょうか」高山メンバー皆が悲しみに暮れています。22年間ありがとうございました。これからもアドバイスをお願いします。



[4] 撞木館の思い出

投稿者: くろの 投稿日:2018年 2月15日(木)00時02分49秒 softbank126209239061.bbtec.net  通報   返信・引用

僕が延藤先生とはじめて出会ったのは撞木館。カーキ色のジャケットにハッチングにスカーフをまとって、お座敷にふらっといらしたのを今でも鮮明に覚えています。

育くみ隊の結成イベントも、この場所をお借りしてやりましたね。午後のお座敷に集まった方たちで輪になって、思いついた唱歌をみんなで声をあわせて次々と歌いました。僕はギター伴奏での参加でした。

心地よい気分でひとしきり
ふとそのとき、南側の茶室のほうから心地よい春の風が
縁側越しに座敷を駈け抜けて去ってゆきました、、、

ーーこれが人生至福の時 僕たちが本当の時間を生きた瞬間でしたーー

やっぱり先生はずっと”風の人”なのかもしれませんね。



[3] 風の人、延藤安弘

投稿者: フジモリ 投稿日:2018年 2月14日(水)19時52分33秒 ntaich118072.aich.nt.ngn2.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

まだ、実感がわかない。延藤先生はもういないのか。「実はまだ、どこかの街にいる」という気がしてならない。そう思わせる存在でした。目を閉じると、あの屈託のない笑顔がすぐ思い出せる。ありきたりの言い方ですが、まだ僕らのなかに生きている。これからも、あちこちの街角で、カメラを抱えた先生の影をきっと見かけるんだろうな。
(写真は2016年4月 豊田市民芸の森にて)いつも隣にいる先生でした。


レンタル掲示板
32件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.