故・延藤安弘先生を偲んで



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[34] 延藤先生を偲んで考えること

投稿者: 藤原智也 投稿日:2018年 7月 1日(日)01時27分5秒 i220-108-60-153.s42.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

■延藤先生と戦後日本
 延藤安弘先生(1940-2018)は、その人生を通して日本の社会が抱えるどのような問題に取り組まれたのだろうか。1960年代から1970年代にかけて自然科学系建築学の訓練を受けられた延藤先生ですが、実に複合的な視座を組み合わせて幅広いお仕事をされてきました。私の先生に対する基本理解は、近代社会における問題、とりわけ日本に特異的な「圧縮された近代化」がもたらす問題に向き合われたというものです。そこには、延藤先生の実存がどのような履歴によって形成されてきたのかが大きく関わっていると考えられます。ここでは小論というかたちで戦後日本社会の変化の中でその営みがどのように位置付けられるのかを素描することで、延藤先生を私なりに偲びたいと思います。
 まず、延藤先生が近代社会をどのように捉えていたのか、その大枠に触れてみましょう。延藤先生は、近代社会に対する二重の評価をされています。一方では、民主主義、立憲主義、人権、平等といった近代の市民社会を起点とする価値、それが可能とする市民参加による政治制度に対する肯定的な評価です。他方では、工業化がもたらす物質的豊かさに囲まれた近代的生活を広範囲に普及させるために、市場経済と国家政府が社会的な「分業化」と「大規模化」を進めてきたことに対する批判的な評価であり、それがもたらす人々の分断と地域社会の空洞化への危機感です。この工業化は今世紀になって情報化へと変異したものの、我々のコミュニケーションを大規模化し分断している点では通底しています。
 延藤先生は1940年のお生まれです。敗戦を物心つく幼児期に経験し、青年期から成人期にかけ戦後復興のただ中でその学的基盤をつくられました。敗戦後初期の日本は、憲法制定(1947)をはじめ、米国の指導下で〈民主的・政治的な再近代化〉へ向け、言い換えると脱全体主義化へ向けて歩を進めることになります。しかし、ソ連の人工衛星スプートニク打ち上げ(1957)前後から冷戦構造が深刻化し、米国の対日政策は〈経済的な再近代化〉へとシフトシェンジしました。そして日本は核の傘の下で国の資源を経済成長に傾注し、米国の不沈空母として鍛え上げられる路線を辿ります。労働者は、政策的に第一次産業(農林水産業)から引き剥がされて第二次産業(製造建設業)へと移転され、効率的な都市部への人口集中、すなわち住生活と労働生活のゾーニングとしての第一次郊外化(団地化)が生じるなどしました。加えて、この頃に行われた高度福祉国家化を目指すケインズ政策による高速道路や新幹線などのインフラ整備と有効需要の創出(1960年代:池田勇人内閣「所得倍増計画」、1970年代:田中角栄内閣「日本列島改造論」)は土建業労働者の所得を後ろ支えし、それが市場における重化学工業製品の製造と流通による安定的な経済循環の前提を供給することで、日本は高度経済成長を短期間のうちに達成しました。これらの結果、〈圧縮された近代化〉としての一億総中流化と物質的豊かさの獲得がなされたのが、日本の戦後昭和期でした。

■地域社会の適正規模と共同体の民主的機能
 そのような1979年、延藤先生は初期の重要な著作として『計画的小集団開発:これからのいえづくり・まちづくり』(学芸出版社)を上梓されています。延藤先生は計画的小集団開発を、「少数の地権者等の共同による住居群の開発を、生活・管理・街区形成・景観形成の諸側面から、必要にして可能な最適小集団単位ですすめ、住宅供給・環境形成の連動をはかる住宅地整備の手法である」と定義づけられています(同書235頁)。当時の都市部郊外の姿は、行政による従来型の大規模な共同住宅の供給(第一次郊外化=団地化)と、市場を介して際限なく無計画に領域を拡大していく戸建持家の供給(第二次郊外化=マイホーム化)とがパッチワーク的に展開しているというものでした。それに対して延藤先生は、スモールユニット(小さい単位)による地域社会圏の形成を、当時の経済的・行政的・技術的な課題へ配慮しながら提案されています。ここに示されている視座には、分業化と大規模化を組み込みながら物質的豊かさの無批判な獲得を求める効率重視の開発が、人々の感情を介した関係性の豊かさや土地に埋め込まれた質的な価値を壊していくことへの警笛が含まれています。
 延藤先生が示された「最適小集団単位」による地域社会の形成という理念は、近年の認知諸科学の研究成果と符合します。20世紀後半より認知諸科学では人間の「情報処理容量の限界」が大きな研究テーマとなってきました。その中に、顔と名前が一致する濃密なコミュニケーションの範囲はどの程度の人数まで可能なのかという主題があります。脳科学、認知考古学、霊長類学、比較人類学などの知見から、その適正規模はおよそ150人前後だということが分かっています(R.ダンバー;1992)。R.ダンバーが一連の研究をもとにこの学説を1990年代から提起したことから、この適正規模の人間集団はダンバー数と呼ばれています。集団規模がダンバー数以内であれば感情や共感で結びついた信頼ベースの身体的なコミュニケーションが優位となり、それを超えた集団が秩序や団結を維持しようとすると言語や数字を介した拘束的な規律や強制的なノルマを課すことが不可避になると考えられています。
 『計画的小集団開発』が出された頃の日本は、ゾーニングによる都市開発とその結果としての郊外化がスプロール現象を巻き起こしていた時期であり、共同体(コミュニティ)の空洞化を象徴する最初の事件である隣人訴訟問題(1977)が起きた後でした。それから日本では、地域社会の中で生じた問題を、信頼や感情で結びついた地域の人々が解決していくのではなく、司法や行政に問題解決を外部化していく事例が多発していくことになります。これは、ダンバー数をはるかに超えた人口密集地としての郊外の整備を、行政と市場が短期間で形成してきたことと無関係ではないでしょう。延藤先生の提起された「最適小集団単位」によるまちの開発は、地域社会による共同体自治の前提を整えるものとしての側面があったと思われます。
 適正規模であるがゆえに地域社会で共同体が機能するという認識は、多様な人々が参画する共同体自治が民主主義を実現するという延藤先生の理念へとつながります。では共同体とはどのような社会的機能を持つのでしょうか。社会諸科学では、20世紀を通してそれを研究してきた経緯があります。社会学、政治学、心理学での実証研究で著名なものを取り上げると、共同体が空洞化すると人々の①自殺が増加し(E.デュルケーム;1897)、②政治不安に陥りやすくなり(W.リップマン;1922、J.オルテガ;1929)、③メディア情報に踊らされやすくなり(P.ラザースフェルト;1948、J .クラッパー;1960)、④子どもへの教育効果は減少し(J.コールマン;1966)、⑤犯罪の発生率が高くなり(P .ジンバルト;1969、G.ケリング;1982)、共同体が機能しているとその逆になるということが指摘されています。さらに近年では、大規模な統計分析を通したソーシャルキャピタル(人間関係資本)研究で、これらが改めて総括的に確かめられています(R .パットナム;2000)。
 とりわけ現代の民主主義の問題と関わっては、地域という最も身近な社会への多様な人々の参画を前提として、上記の②と③が重要な意味を持っています。そこでは、メディアが権力と結びつきがちであるという懸念を踏まえて、個人ではなく集団としての情報リテラシーを高めることが期待されています。共同体の内部で、政治通、経済通、芸能通、スポーツ通、映画通、サブカル通、〇〇通といった多様な人々が繋がり、情報の相互共有が可能になる。このことで、権力を背景にしたメディアが恣意的な不完全情報を流した時に、それを共同体内部の〇〇通が補完してくれることで完全情報化に近づけるというものです。このように、権力に迎合したメディアを通じて政治的に踊らされる「大衆化」現象を食い止める機能が、共同体には期待されています。これは、共同体が外部からの圧力によって空洞化していくのを民主主義のプロセスによって防ぐのに必要な構えとなります。
 延藤先生による討論型ワークショップは、一定の人数規模で多様な出自、趣味、職業、専門をもつ〇〇通の人々が、水平関係で闊達に発言できるようデザインされていました。それは、地域社会の内部の人々が摩擦を経験しながらも共感をもとに連帯を形成していくと同時に、外部に対する働きかけをする上での地域単位での社会的影響力を培うために不可欠となっていました。

■日本的発想から「まち」に関わる
 延藤先生は1970年代から「コミュニティづくり」、「まちづくり」という単語を使われていましたが、1990年代末を境に「縁側」や「まち育て」という用語を使うようになっています。時期としては、日本がバブル崩壊(1991)以降も緩やかな成長を続けていた経済が、デフレ不況(1998)に突入した頃と重なります。この変化は、1990年代に顕著になってきていた社会構造の転換に対して、延藤先生がその主張をより明確化するという作用があったと考えられます。また延藤先生の関心が「日本で可能な地域社会とはどのような形式によってか」という問いへシフトしたものと捉えることもできます。
 「縁側」に込められた延藤先生の理念には、かつての日本建築が誘発していた人々のコミュニケーションの機会保障をいかに現代的な形で保全できるのか、という発想があります。靴を履いたまま半身で屋内に腰掛けることができる縁側は、内でも外でもない曖昧な領域であるがゆえに、日本的な人と人との関わりを作ってきました。しかし、この縁側は、なだらかに日本から消失しています。縁側に関わる事例として、ツーバイフォー工法による住宅供給の変化を社会背景と合わせて描写してみましょう。
 米国の対日戦略が、ケインズ主義による国家単位での経済政策路線から、新自由主義によるグローバル単位での経済政策路線へと変化したのは1980年代のことでした。その特徴は、社会構造改革を推進する主体を行政から市場へ移動させる点にあります。この市場を介したグローバル単位での経済政策の一環に、1974年から日本で導入された米国開発のツーバイフォー工法による住宅を、米国産木材100%使用によって安価に日本の消費者へ供給できるようにするというものがありました。実際に、1990年代を通して米国政府から日本政府宛ての『年次改革要望書』にこの事項が記述されており、1998年の建築基準法改正に組み込まれていました。米国人口の7割以上はキリスト教徒であり、それを背景とした自由主義的な個人主義が、彼らのコミュニケーションの基礎を成しています。ツーバイフォー工法は耐震性・耐火性・断熱性に優れた機能的住宅である一方、《面=壁》による遮蔽性の高い建築構造です。これは、《線=柱》に基づいた伝統的日本家屋が、温暖湿潤気候のために通気性を良くして四季折々の光と風を取り入れるのと同時に、襖や障子などによって遮蔽性を低めて他者の気配を身体的に感じやすい構造を成していたのと対照的です。縁側はこの《線=柱》に基づいた日本建築に組み込まれたものでしたが、《面=壁》に基づいた米国建築を日本に導入していくにつれ排除されていくことになります。
 ここには、日米の建築様式に対応する宗教社会学的なバックグラウンドの違いがあります。キリスト教は「聖書=言語」を介して「唯一神=超越」に接近しようとするがゆえに、欧米人のコミュニケーションのモードは言語が優位となります。また、壁で遮蔽された個室で個人が聖書に向き合うことで、黙想のうちに神と時空間を共にするという個人主義の前提をなす宗教的生活様式があります。日本の自然信仰(アニミスム)は「畏れ=感覚・身体」を介して「八百万の神=自然」に接近しようとするがゆえに、そのモードは非言語・身体が優位となります。そこでは、自然や他者の気配や空気を読みながら、共感を広げていく接し方があります。開国後の日本と欧米の初期の外交では、欧米人は日本人を「言語でコミュニケーションを取れない子どもっぽい人種」だと下に見ていましたが、日本人は欧米人を「雰囲気を察してコミュニケーションを取れない子どもっぽい人種」だと下に見ていました。人類学者のE .ホールはこの違いを、ロー・コンテクスト(文脈非依存的=言語優位=欧米)とハイ・コンテクスト(文脈依存的=非言語・身体優位=日本)と区別しています(E.ホール;1976)。つまりツーバイフォー工法を典型とする《面=壁》による建築は、宗教的リソースを前提とした言語優位のコミュニケーションで個人主義が成立している米国人には適合的な建築かもしれませんが、それを前提とせず非言語・身体優位のコミュニケーションで個人主義が成立していない日本人に適しているかは、再考しなければならないという問題がありました。
 戦後日本の住宅着工戸数の推移には、四つの山があります(国土交通省『建築着工統計調査』)。まず、1973年をピークとする高度経済成長に支えられた第二次郊外化としてのマイホーム化の最初の波、つまり農村部出身で都市部郊外の賃貸住宅に住んでいた労働者が、経済的豊かさを手に入れて持家住宅へ移行する際に建てられたものです。次は、1990年頃のバブル景気を受けた結果として建てられた住宅です。そして、阪神淡路大震災復興期の建設ラッシュがあった1996年。最後は2006年頃で、デフレ不況突入(1998)で激減した後にリーマンショック(2008)前まで緩やかに着工数が増加していた住宅群です。これら四つの山は順に小さくなっているのですが(1973年=約190万戸、1990年=約170万戸、1996年=約160万戸、2006年=約130万戸)、ツーバイフォー住宅の着工戸数は増加の一途にあります(木造着工戸数中のツーバイフォーのシェア:1990年=約5%、1996年=約12%、2006年=約20%)。ツバイフォーに限ったことではありませんが、戦後日本の持家が欧米化に伴って構造的に転換したことと、日本の住宅から縁側とその機能としての日本的なコミュニケーションの円滑さが消失していく過程は重なっていたと見るべきでしょう。延藤先生が「縁側」というキーワードを使われるようになったのは、これらの消失に対する警鐘という面がありました。
 自然を感じながら身体的な近接さの中で共感的なコミュニケーションを営む日本的な住環境、そしてそこで交わされる人と人、人と場所との関係性を成り立たせるまちそれ自体を〈生命ある対象〉として向き合おうとする延藤先生の態度が表れているのが、「まち育て」だと考えられます。生命なき対象を「つくる」のではなく、生命ある対象を「育てる」、これは地域社会やまちを日本的な発想から考える上で非常に示唆的です。ユダヤ・キリスト教圏では、人間も自然も唯一神が創りだした被造物です。それゆえ人間と自然は並列関係にあり、人間が自然に手を加えることを「合理」だと考えます。それに対して日本では、自然に対する人間の信仰があり、自然へ人間が過度に手を加えることに対して「畏れ」を抱きます。しかし日本では、近代化に伴ってこの「畏れ」の感覚が希薄になり、自然をアスファルトとコンクリートによって広域に人工化してきました。例えば、この問題に関するテーマはジブリ映画において繰り返し扱われてきています。
 戦後日本では、行政と市場が自然を人工化することによって、多くのまちづくりを進めてきました。そこで求められたのは、経済効率と時間効率を組み込んだ上で、安心・安全・便利・快適といった人間中心の住みやすさを達成することでした。しかし、人にとってのまちの価値が「住みやすさ」であれば、さらに住みやすいまちがあれば人はそちらへ移り住みます。20世紀後半以降、実際に日本は先進国の中で最も人口移動が激しく、とりわけ都市部への大規模な人口集中が生じている国です。これでは、人と人が中長期的な関係性を切り結び、地域社会における共同体を機能させ民主主義を正常に作動させることは困難です。新幹線を降りて初めて訪れる地方都市に、既視感を抱くことはないでしょうか。それは、「住みやすさ」という人間中心の一元的価値に基づいて、まちを生命なきモノと見做した開発が全国でなされ、まちが入れ替えのできる場所になってきたことを示します。
 人々が自然への「畏れ」の感覚を持ちながら〈生命ある対象〉としてまちと向き合って育む場合は、「風土固有性(ヴァナキュラリティ)」が保全されながら人の手が加えられます。この「風土固有性」は「住みやすさ」と異なり、言語化・数値化することが困難な、しかしそこで生活している人々には身体感覚として浸透している合理を超えた価値です。人にとってのまちの価値が「風土固有性」であれば、身体感覚や感情で結びついているがゆえにそのまちが他のまちでは入れ替えができない居場所となり、そのまちに住み続け、あるいは一時的に離れてもそのまちが帰るべき故郷となります。
 この「風土固有性」と「住みやすさ」には対立が生じます。なぜなら自然には不安・危険・不便・不快が含まれているからです。しかし、それを「住みやすさ」という価値のもとで手を加えてしまうと、このまちにしかない「風土固有性」を壊してしまう可能性が含まれてしまいます。一度壊してしまったまちの「風土固有性」を、人工的に再生することは非常に困難です。なぜなら、そのまちの入れ替えができない価値や魅力が形成されてきた履歴は、人間のライフスパンを超えているからであり、「風土固有性」は人の設計でかたち作られたものではないからです。その時々の人間の短期的な物差しでまちづくりをするのではなく、そのまちを成り立たせている風土やそこで長きにわたって培われてきた文化や伝統を参照することを通して、そこに住まう人々が育ち合い、まちを育てていく。
 延藤先生のまち歩きには、〈生命ある対象〉へ向けられるまちへの暖かい眼差しがありました。「縁側」や「まち育て」について語られる前になされていたまち歩きには、かつての日本的発想からまちと対話しようという延藤先生の態度があったと思われます。このことは、延藤先生が「縁側」や「まち育て」という理念を掲げるのと同時期に、自然の環境や生態に根ざした地域社会を民主的に形成していく「エコロジカル・デモクラシー」へ強い関心を寄せておられたことと結びつきます。延藤先生はエコロジカル・デモクラシーを「参加と協働による環境親和型社会」と定義づけられています(「実践政策学の構図を考える」『実戦政策学』(1-1)、76頁)。自然を念頭においた環境と親和していく糸口は、〈生命ある対象〉としてまちと向き合い対話するという、延藤先生のまち育て実践そのものにあったといえるでしょう。

■延藤先生の遺されたプロジェクト:「圧縮された近代化」から「オルタナティヴな近代化」へ
 敗戦を幼少期に経験された延藤先生は、二度と日本がそのような状況にならないよう、平和に対する強い思いをお持ちでした。しかし戦後昭和期の日本は、人々が平和を実現させる力を蓄えるための「政治的・民主的再近代化」ではなく、冷戦構造を背景においた「経済的再近代化」の路線で舵取りをしていました。「圧縮された近代化」という行政と市場を通した物質的豊かさの獲得を短期間で達成させた日本のまちは、しかし「風土固有性」よりも「住みやすさ」を追求し、地域社会の共同体の機能が低下してきました。その結果、地域の問題を、地域に住む人々が摩擦も経ながら解決するのではなく、行政や市場に問題解決を外部化するようになるとともに、先進国でもトップレベルの人口移動が生じています。さらには、冷戦構造が崩壊(1991)したにも関わらず、日本では「政治的・民主的再近代化」よりも「経済成長」が優先され、デフレ不況突入(1998)から現在に至るまでその路線は大局的には変わっていません。ですが、工業化から情報化への産業構造の転換や経済不況とそれによる税収低下によって、行政や市場は社会の問題を解決しきれず、日本では格差や貧困などの問題が連鎖的に深刻化しています。
 延藤先生はその人生後半期において、「日本的発想からのオルタナティヴな近代化」を意識しながら模索しておられたと考えられます。日本の自然風土やそこで積み重ねられてきた生活に目を向けながら、多様な人と人との、人と場所との関係を編み直し、縁側を育み、まちを育む。そしてその先に、政治的・民主的再近代化を通して平和を実現する力を我々が培っていくこと、これが延藤先生の目指された、そして我々に遺されたプロジェクトだったと、私は理解しています。西洋流の近代化が、現在の国際情勢の不透明さを含めた問題を生じさせているとの認識が広まっている現代において、「日本的発想からのオルタナティヴな近代化」をローカルなレベルから積み重ね、広げていくこと。そこで必要となるのは、身体や感覚を介した人と人、場所、まち、自然とのコミュニケーションであり、そこでつき動かされる感情と相手への共感です。
 思えば、延藤先生の笑顔は、私たちやまちへの共感に溢れたものでした。日本のみならず世界的に閉塞感が広がる現代において、日本だからこそ実践できる「ピンチをチャンスに変えるんや!」を笑顔で模索していくことを、延藤先生は後押ししてくれているように思います。

藤原智也(愛知県立大学 教育福祉学部 准教授)


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