故・延藤安弘先生を偲んで



カテゴリ:[ 子供/学校/教育 ]


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[20] スイミーのような先生

投稿者: 竹内孝治 投稿日:2018年 2月21日(水)23時27分33秒 softbank126027000110.bbtec.net  通報   返信・引用   編集済

1.縁をいただいて
 2018年の年明け、にわかに延藤先生からメッセージが届きました。「今年もよろしくお願いします!ところで、1月18日、19時からの「おいしい幻燈会」ご参加くださると嬉しいです」。文末にはカワイイ絵文字が。随分とお会いできてないので久々に幻燈会を満喫させていただこうと意を決し、アウェイ感あふれる会場に赴きました。
 不思議なご縁で、延藤先生はまちづくりに全く接点がないわたしに寛大にも二度、ご著書の書評を執筆する機会を与えてくださいました。そのキッカケは8年も前に書きちらした「折口信夫『類化性能』概念からみた延藤安弘『まち育て』論の論理構造」(2010)という文章をお目にかけたこと。存命中の先生を研究対象にした甚だ失礼な内容だったのに、先生は(あの)笑顔で喜んでくださいました。それから後、『まち再生の術語集』(2013)の書評では今和次郎と延藤先生、『こんなまちに住みたいナ』(2015)では絹谷祐規と延藤先生をそれぞれ「~のような」で結ぶお話しを書き上げると、先生はその都度おしみなく感謝と激励のメッセージをくださいました。
 そんな先生とも愛知産業大学大学院での最終講義以来。かれこれ5年ぶりにお会いする機会が「おいしい幻燈会」でした。

2.どうあるべきか
 久々の「幻燈会」。当日のメニューはレオ・レオニの名作絵本『スイミー』。小学生のとき教科書で読んだ以来です。小魚たちが力をあわせて大きな魚に立ち向かう姿は、困難な状況を皆で乗り越えるための「自分の持ち場」を気づかせてくれる素敵な物語り。この絵本を物語りの枕にして「ブルガリアのマチ・ヒト・コト」の世界に赴き、分断と憎悪が渦巻く現代社会に豊かさを取り戻す道筋がどうあるべきかを探る濃厚な3時間でした。
 ただ(というかやはり)、「幻燈会」やその後の意見交換の内容は誤読を促す側面がいくつか見られました。それは「対比」軸が「対立」軸と受け取られるということ。小魚たちと大きな魚は「対立」するのではない(でも「対立」という誤読すらも大いに許容するのが延藤マジックなのですが)。『スイミー』を弱者の協働による勧善懲悪ストーリーにしてしまうと、延藤流「皆が前向きに勘違いできる仕組み」の力は半減してしまいます。
 その典型的な例が「モノ・カネ・セイドからヒト・クラシ・イノチへ」でしょう。後者は前者を否定しない。AからBへ、ではなく、AもありつつのBへ。言葉を加えるならば「モノ・カネ・セイド(という手段が目的化した状況)からヒト・クラシ・イノチ(という生きる目的を大切にした社会)へ」となるでしょう。だって京大巽研助手だった延藤先生ご自身が「モノ・カネ・セイド」に疎いはずがない。むしろ当然に身に着けている基礎教養だったゆえにわざわざ語らなかったというのが実情だろうと思います。それこそ、あの伝説の「杓子定規」を投げ捨てた京都嵐山のエピソードが象徴的。役所の職員たちはちゃんと定規(職場の備品)を持って、途中で杓子も買い込んで話し合いに向かい、終了後は杓子定規を丁寧に仕舞ったのだから。

3.安らかにご活躍を
 「おいしい幻燈会」から間もない2018年2月8日、延藤先生は天国に召されました。享年78歳。たまたまお誘いいただき参加した1月18日の「おいしい幻燈会」がまさか最後の幻燈会になるとは思いもよりませんでした。幻燈会当日、先生はいつも楽しみにしているお手製のアンケート用紙を事務所に置き忘れてきたということで、久々に体験した幻燈会の感想を後日Facebookにまとめました。先生にその旨ご報告のメッセージを送りましたが、もうそのメッセージは開封されることはありませんでした。
 いま思うと、最後の幻燈会でとりあげられた絵本が『スイミー』だったのはとても意味深です。絵本に出てくるスイミーは、困難な状況におびえ立ちすくんでいる仲間たちに、そんな困難を乗り越え、豊かに生きるための「自分の持ち場」を気づかせてくれる存在でした。そんな頼もしいスイミーも、物語冒頭で多くの仲間を失う経験をしています。そういえば、延藤先生が西山夘三への師事を心に決めた運命の本、『これからのすまい-住様式の話-』(1947)も、冒頭いきなり「住宅の戦災比率図」から始まる内容でした。先生は1940年大阪生まれ。多感な幼少期に目にした焦土の大阪は、スイミーが直面した困難と重なります。
 そして、「ぼくが目になろう!」というスイミーの決意は、自分こそが心のなかのイメージを形にできる芸術家なのだという、作者レオ・レオニ自身の矜持でもあったと同時に、カメラをもってヒト・クラシ・イノチの渦から物語りを汲み(酌み)取り、それを表現することで皆にそれぞれの「自分の持ち場=自分らしい生き方」の気づきを与え続けた延藤先生自身の矜持でもあったのだと思います。スイミーのような延藤先生に導かれ、数え切れない人たちが岩陰から出て泳ぐ素晴らしさを知ることができました。先生、どうぞ安らかにおやすみください。いや、先生におやすみは似合わないか。安らかにご活躍ください。

4.広がりはエンド(ウ)レスに
 延藤先生が旅立たれ、わたしたちはスイミーの「目」を失ったのでしょうか。言うまでもなくそれは否でしょう。だって、私たちはもうことあるごとに、「必死のパッチ」だとか「タンケン・ハッケン・ホットケン」だとか口にしてしまいますし、文章が箇条書きされていると条件反射的に頭韻要約したくなります。恐るべし、延藤術語集の世界。そう思うと延藤先生はみんなの「目」としていまも生きているし、それこそが究極の「相互浸透」の実践なのかもしれません。実際、Facebook上で延藤先生がご本人じゃないのにタグ付け投稿されていてクスッと笑うことがたびたび。居るはずもない場所で、明らかにご本人じゃないのに、なぜか「〇〇さんは延藤安弘さんと一緒です」と投稿される。
 こうして延藤先生のまち育ては、いろんな人がいろんな思いで前向きに勘違いしながら回転していく終わりなき円環構造。これまた延藤先生が愛された絵本『ちいさいおうち』で象徴的に描かれるように、それはOpen-EndoかつEndo-less。最後の幻燈会で先生からいただいた「ぼくが目になろう!」のメッセージを胸に、わたしも「自分の持ち場」で豊かに生きていきます。先生どうもありがとうございました。




[19] 自分で自分を育てることができた人

投稿者: 林桂吾 投稿日:2018年 2月21日(水)23時04分17秒 softbank126100241183.bbtec.net  通報   返信・引用

私が東京の出版社をやめて名古屋に来たのが2001年。延藤安弘さんの『こんな家に住みたいなナ』(晶文社)は学生時代からの愛読書だったのですが、名古屋に住んでいらっしゃるのを知ったのは2004年9月のことでした(てっきり千葉大学におられると思っていましたので)。すぐにお手紙を出して、当時は名古屋の代官町にあった「まちの縁側MOMO」にうかがいました。もちろん延藤さんの本をつくらせていただきたいと思ったからです。さっそくこれまで書かれた原稿のコピーをお預かりしたものの、良くも悪くも『こんな家に住みたいナ』のイメージに私自身が引っ張られ、これと違う切り口をとあれこれ考え数カ月…。延藤さんから「じつはこんな企画もある…」とご提案いただいたのが、「まちの縁側大楽」の連続講座をまとめるお話で、それが『私からはじまるまち育て』(風媒社、2006年)になりました。
延藤さんの単著の話は結局そのままになってしまいましたが、その後、延藤さんのお母さんの本『私の花ものがたり』(延藤安以子著、2006年)の編集を担当させていただく機会に恵まれました。私家版ではありますが、国立国会図書館にも1冊入っていますし、中から一部、私の好きな箇所を引用させていただきます。
「金木犀」というタイトルのエッセイの後半です。

「…はじめて堺の成人学校へ行った日は、五十年も昔の十月開講の犬養先生の万葉講座でした。そのはじめてのお講義は、『宮廷の皇子、皇女の相聞歌』。はじめてきく先生のあのお話ぶり、いいお声で朗々と詠まれるお歌に、身も心もうっとりとなって九時半。チンチン電車で船尾の駅から家へ帰るまでの道で、金木犀がかすかに漂っていました。たしか大内山さんというお宅のお庭からです。とみこちゃんが『おすもうさんみたい名前のおうちがあるよ』と教えてくれたおうちです。なんて幸せなこと、なんてよい日、そしてなんて、いい思いをしてきたことかと、胸をあつくして帰ったことを思い出します。
 あの夜流れていたいい匂いの空気、そして、主婦としてはじめて、こんな勉強の機会に恵まれた幸せを胸に帰宅しました私を、今もはっきりと思い出せます。あの夜、茶の間では、お父さんと、子どもたち三人がお茶の用意をして待っていてくれました。いささか興奮気味で、その日の授業のことをみんなに話してお茶を、そして、その後、勉強する子どもたちとともに、私も、その日の先生のお講義を忘れないうちにと一生懸命ノートしたことを覚えています。長い私の一生の中での忘れられない日でした」

この「子どもたち三人」の一人が延藤安弘さんだったんですね。こういうご両親、家庭の中で延藤さんは育ったのだと…。安以子さんも、延藤さんも、自分で自分を育てることができた人だったと思います。



「お寺の本堂での幻燈会、大好きです。神々や天女に見守られながら、語り手も参加者も幻想の世界を分かち合えるからです」
延藤さんからの私宛最後のメールです。暖かくなったらあるお寺で幻燈会をやりたいと、私が主催してでも実現したいと考えていました。幻になってしまい、本当に残念です。
いろいろと考える手がかりをありがとうございました。



[18] 仙台荒浜から延藤先生へ

投稿者: 貴田 喜一 投稿日:2018年 2月21日(水)17時38分31秒 ntaich058179.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

私達の東日本大震災に直後から来仙頂き「延藤先生・まちの縁側育くみ隊」スタッフの皆さんで応援そして知恵・最後に纏め講座をいっぱいいただきました。だからこそ!現在7年を迎えても頑張ることが出来ています、昨年12月のお誕生日メッセージを送りました時に「近い日お会いしたいね」下さり、年明け2月にアカデミア8回を予定して新井先生と打ち合わせをしていただけにとても、残念です。思い出には延藤先生の素敵な笑顔が印象的で素晴らしアイデアもいっぱい教えて頂きました、有難うございました。

http://yellowarahama.at.webry.info/201209/article_1.html



[17] 延藤先生にお会いして・・・

投稿者: 森まゆみ 投稿日:2018年 2月21日(水)17時23分54秒 ntaich058179.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

延藤先生にお会いしてから30年近くになるでしょう。お母様も長生きでいらしたし、100まで大丈夫だと思ってました。谷根千をご案内した時、「うん、この方式だと飽きないで続けられるね」と言われたのが大きな励ましになりました。確かに、三ヶ月に一度、鴎外だったり、酒屋さんだったり、谷中五重の塔だったり、空襲だったり、毎回違う特集を一生懸命、調べたり聞いたりしてきたので飽きないで続けられたのだと思います。名古屋もなんども案内していただきました。オシャレでした。荒浜で私が寒くて震えていると延藤センセがアノラックを貸してくれました。会合の後に返そうと思ったら、なばちゃんが、似合うよ、もらっちゃったら、といったので、もらってきて、ずっと愛用しています。大切に着ます。谷中で幻燈会をしてくださった時、たまたま聞気にきたうちの母が「こんなにすごい人が日本にいるんだね」つくづく感心していました。なばちゃん、さみしくなりますね。私は昨年秋に、元倉眞琴さん、そして延藤先生、本当に素晴らしい人ほど先に空の向こうに行ってしまうような気がします。でも、どこかで延藤アンコーさんの声も聞こえます。笑い顔も見えます。励まされて、生きていきましょう。街をまもるために。



[16] 1/30.000人の縁に感謝

投稿者: ohokubo 投稿日:2018年 2月21日(水)14時19分59秒 118-105-238-107.dz.commufa.jp  通報   返信・引用   編集済

ひとがその一生の内に出会うひとは、一体何人いるのだろうか? あるデーターによると、何らかの接触があるひとが約30,000人。その中で直接的な関係をもつひとが3,000人。更に親しくなるひとが300人。その中で更にいつも会話を交わすようになるひとが30人、そして親友ともなると3人になるそうだ。

延藤安弘先生との初遭遇は、先生がまだ千葉大の教授だった頃だ。忘れもしない。坪井氏に誘われて一宮の宮前三八市広場を市民参加でつくるワークショップに参加した。ワークショップの最初に幻燈会があり、いきなりスヌーピーが仲間と共に「幸せって何だろう?」と哲学していた。多くの人が疑問に思うだろうことを、私も思った。「まちづくりのワークショップなのに、どうして哲学なのだろう?」現在なら解ることでも、当時の私はまだ未熟者でそれが不思議に思ったものだ。その後、これもまた坪井氏に誘われて名古屋市東区の橦木館育くみ活動に参加し、現在のNPO活動に至っている。当然のことに先生から学んだことも多いし、思い出も数え切れない…。

先生と最後にお会いしたのは、昨年末のミッツさんでの「ジネンカフェ本づくりミーティング」の折だった。この話が持ち上がったのは、一昨年のジネンカフェVOL.100終了時だったと記憶している。予算がないのに本なんて…と二の足を踏んでいた私の背中を「本は金がなくても作れるんや」と背中を押してくれたのも先生だった。それから延々ミーティングを重ねて、本の方向性が決まり、ダメ出しを出された私が幾度も中身を書き直し、ようやく二話目に取りかかっていた。その矢先の突然の訃報である。次回のミーティングの日時までご自分で調整されていたぐらいだから、先生もよもやこんなに早くご自分がこの世を去るなんて、思っていなかったのだろうな…。

私は重度身体障害者と呼ばれる身で、学校も現在でいう特別支援学校を経て、三河一宮にある職業訓練校を出ただけの人間だ。若い頃は作家になりたいと思っていた。それが何を血迷ったのか、市民活動の世界に身を置くようになって20年近い年月が流れた。その約17年ほども延藤先生を身近に感じつつ活動してきたことになる。普通に生きていたら出会えなかっただろうな。そういう意味では出会うきっかけを作ってくれた坪井氏にも感謝しているし、親しく接してくれていた先生にも感謝している。

延藤安弘先生、いままでありがとうございました。私ももう還暦に王手がかかる歳になりました。でも、まだそちらへは参ることはできません。先生もそうだったでしょうが、やり残していることが山ほどあります。それにまだ先生に感謝の気持ちを伝えてはいません。普段の暮らしの幸せを守り、育んでゆく…。それが私が出来る感謝の形です。そちらに行った際には、またご一緒に活動させて下さい。



[15] 荒浜より、延藤先生ありがとうございました。

投稿者: 庄子隆弘(海辺の図書館) 投稿日:2018年 2月21日(水)13時55分35秒 px01-r1.nc.tohoku-gakuin.ac.jp  通報   返信・引用

東日本大震災直後から、荒浜に想いを寄せられていた延藤先生に、私が初めてお会いしたのは、2014年のことでした。荒浜再生を願う会が主催する「荒浜アカデミア」という住民と研究者が同じテーブルで、被災地のこれからをディスカッションするイベントが最初だったと記憶しています。その席で、海辺の図書館の取り組みに対して、励ましの言葉をいただきました。
つい最近、ご寄贈いただいた『まち再生の術語集』を読み返して、次のお会いするときには、あんな質問やこんな質問をしよう!と思っていた矢先の訃報に、驚くばかりでした。
ご冥福をお祈りします。



[14] 良いところを見つける天才でした

投稿者: 辻村琴美 投稿日:2018年 2月21日(水)11時21分34秒 M014013196128.v4.enabler.ne.jp  通報   返信・引用

延藤先生におであいしたのは、滋賀県立大学の鵜飼先生の近江環人の講座でした。それからご縁があり、琵琶湖博物館の子どもエコきっず審査員でご一緒しました。先生が「みんなが素晴らしいので、良いところを賞の副題にしましょう」とご提案されて、‘’お化けのおばQ (伯母川)もビックリするでしょう‘’とネーミングなさったことが強烈な思いでです。それから、良いところを見つけて誉める独創性が、人のため、ひいては自分のためになるのだなと感じ入りました。残念です。また帰って来てください。



[13] 延藤安弘先生、ありがとうございました。

投稿者: 十時由紀子 投稿日:2018年 2月21日(水)09時05分26秒 ae034087.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp  通報   返信・引用

延藤先生、先生がトコトコ歩く新書のパラパラ漫画をつい何度も再生しています。素晴らしい星座をいただいたご縁に、心から感謝します。ありがとうございました。また宇宙の、いろんな場所で、きっとお会いします!



[12] 延藤先生へ

投稿者: 村上 心 投稿日:2018年 2月21日(水)00時18分44秒 h180-200-015-002.user.starcat.ne.jp  通報   返信・引用

先生についてのお話は、西山研の諸先生方、横山先生などから伺っておりました。初めてお姿を拝見したのは、或る建築学会の大会の研究集会でした。初めてお話しさせていただいたのは、名古屋の或る幻燈会でした。一緒に呑んで笑う機会も頂きました。一緒にまちを考える機会も頂きました。永遠に続くのだと感じていた時間でした。もう訪れない時間、信じられません。先生の笑顔は、ずっと側にいらっしゃる気がします。。御冥福をお祈り申し上げます。。。



[11] 追悼文:延藤安弘さんへ

投稿者: 三矢勝司 投稿日:2018年 2月20日(火)21時33分23秒 i125-205-23-140.s10.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

自分のブログに記載したものです。
http://blog.livedoor.jp/mitsuya0223-399/archives/22168250.html


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