故・延藤安弘先生を偲んで



カテゴリ:[ 子供/学校/教育 ]


30件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[32] 故延藤安弘先生を偲んで

投稿者: 岩井昭洋 投稿日:2018年 4月21日(土)18時04分59秒 ntaich253170.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

サムライ事件
うららかな春の日、薄原でタケノコ掘が催された。もちろんこれもHOPE 計画の一つ。参加者は延藤先生、策定委員の先生方や県の人、そして地元の「なごみどもやい住まいづくり研究会」のメンバーの管cUo
革靴をナガグツに履き替えて慣れない竹山の急斜面をそれぞれ登ってゆく。上にいくと足元のあちこちに先 の黄色いタケノコが地面から顔をだしている。先生はナガグリに軍手、それと手にはヤマガ。いつもと違ううきうき した表情で楽しんでいる様子。先生は首に掛けていたカメラが邪魔になったのか近くにいた私に「これ預かっと いて」と渡された。いや渡されるはずであったが、なんとカメラは私の手からをするりと落ちて・・・コロコロと竹林の 斜面を転げ落ちていくのだった。「あっ!どげんしよっか!」と私は心の中で叫びつつ、転げ落ちていくカメラを 追った。ようやく手にしたカメラは泥だらけ、泥を払ってもカメラにはキズがついている。
私は不安な気持ちで「すみません」とカメラを先生に手渡したところ、先生は優しく微笑んで私に「大丈夫だ よ、これはサムライだから!」と言ってくれました。先生の大事にしている買ったばかりのカメラだったのに、先生の 心遣いを今でも覚えています。
でもこれには続きがあって、のちのちのもやい館であった先生の幻燈講演会の一つのネタになっていて、先 生もずっと覚えていてくれたんだーとうれしくなりました。

やっぱり幻燈会
延藤先生と言えば幻燈(スライド映写)。講演はいつも幻燈でした。最初は1台、でも水俣に来て2台に。私 の担当はいつも映写機係でした。講演テーマは「こんな町に住みたいなあ」。まるで無声映画の活弁士のよう な滑らかな関西弁はユーモアで心地よくて、何でこんな風に巧みに言葉を操れるのだろうと感じつつ、いつの間 にか先生の話に夢中になっていました。
そして、スライドの片隅にいつもネコが映っていました。三毛猫に黒い猫、白い猫。そういえば絵地図コンク ールで子ども達が描いた絵には、ヒトの暮らしや住まいの中にネコやイヌ、ニワトリもたくさん登場していました。
そんな幻燈会で印象に残っている先生の言葉に「継続は力なり」、もう一つは「どう折り合いをつけるか」。 そのほかにも先生からはいろんなことを学びました。

いろんな思い出
先生には HOPE 計画に始まり、もやい館づくり・おれんじ館づくり、袋小学校づくり、阪神大震災復興支援 コンサート、水俣エコハウスづくりに協力いただいが、先生が主催するまちづくりにも水俣から積極的に参加して いた。一つは住み手が共同組合方式で敷地を購入して建設する集合住宅コーポラティブハウス、完成の日 はなごもやのメンバーの皆さんと一緒にMポート(熊本市)へ出向き一緒に祝ったことを覚えています。敷地に 植えてもらおうと皆で「実のなる木(ザクロ)」をプレゼントしました。
また、先生が日本建築学会賞を受賞された時も受賞会場(熊本市)へ出向き、お祝いしました。授賞式を 盛り上げようと会場入りロに飾る竹や薦などを水俣から持参し飾ったことを覚えています。先生も大変喜んでも らいました。このとき上映されたスライドでは先生の学生時代の学生服姿やバスケットを楽しんでいる写真がでて きて私たちが知らない先生の一面を垣間見ることが出来ました。
人は去っても言葉は残ります。
先生から学んだこと、発せられた言葉は私の心に残っています。 ありがとうございました。天国でもまちづくりの幻燈会をしているようなそんな気がします。

平成30年4月 20日 岩井昭洋




[31] 故延藤安弘先生(当時、名城大学教授)のご逝去を悼む

投稿者: 元水俣市長 吉井正澄 投稿日:2018年 4月21日(土)17時27分0秒 ntaich253170.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

延藤先生のご逝去、まことに無念であり心からご冥福をお祈りいたします。
私、馬齢を重ねて最近少し体調を崩していました。折角の「偲ぶ会」に出席できませんので、簡単な哀悼の言葉をお送りいたします。

1995年の水俣病未認定患者の政治解決に向けた陳情活動の成果の一つに、環境庁は、地域全体の被害の救済として「もやい直しセンター」の建設を約束してくれました。そこで市は、健康、福祉、生涯教育などの複合施設の建設を計画しましたが、当時は水俣病問題が最も紛糾し市民の合意形成ができる情況ではありませんでした。そのような中で、建設を引き受けていただいた延藤先生の存在は真っ暗闇に現れた救いの神でありました。
まず、合意形成の手段としてワークショップを提言されました。市民が基本構想から論議することで市民にも一定の責任を持たせるという、当時としては、まったく斬新な行政手法でありました。
そのワークショップを通した市民の動きに応じて事業を推進するよう適切な指導も頂きました。これが「市民参加」ならぬ「行政参加」という水俣市独特の行政手法を編み出すことにつながったのであります。

想えば、先生は、公共施設の建設という本来の仕事だけでなく、崩れてしまった市の内面社会の再生、即ち「もやい直し」はワークショップという市民対話で実現できることを実証し、それに全国的に名を馳せた「行政参加」という水俣市独特の行政手法の開発に貢献され、水俣再生の基礎を築かれた功績を忘れてはならないと思っています。私は「もやい直しセンター」を訪れる度に延藤先生の存在を思い出し感謝いたしております。

先生から多くのことを学び成長された有能な多くの職員を見てきました。それらの人びとが水俣再生の原動力になったと信じています。

最後に、お集まりの皆様が益々ご健勝で延藤先生のご薫陶をさらに活かされますように祈念いたしますとともに、重ねてご冥福をお祈りいたします。

以上
 吉井正澄



[30] 故延藤安弘先生に

投稿者: 地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎 投稿日:2018年 4月21日(土)17時25分31秒 ntaich253170.aich.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp  通報   返信・引用

故延藤先生の思い出です。いつもメモしていた姿を思い出します。そのあと紡ぎだされてきた言の葉はみんなをびっくりさせていました。
水俣では、1987年のこと、先生が熊大に着任早々だったと記憶しています。大学に行き、水俣に来てもらいたいと伝えました。地域住宅計画策定のためです。その時のことはいまでもおぼえています。特に先生が柔らかな笑顔でむかえてくれたことを。水俣では委員長になってもらいました。計画の策定のあとも推進事業が続きました。計画策定には30人の住民が参画し「和みともやいの住まいづくり研究会」を結成し活動してくれました。大活躍です。「住まい方拝見ツアー」「こんな町に住みたいなぁ絵地図コンクール」と「絵本づくり」、「設計コンクール」「水俣の建築紹介」とそれをスライドにした「水俣の風土と住まい」などです。
その間に培われた信頼関係は大きく、水俣再生に向け動きが始まった1991年には先頭に立ってくれました。まずは自治の訓練だと思い、取り組んだ住民の自治組織で自治活動の世話をする「寄ろ会水俣」に地区の世話人代表に仲間たちはなってくれたのです。代表は西英生さんです。西さんは役場と役人が嫌いで、住民票をとりにいくときも、奥さんに取らせて駐車場で待っていたと聞いたことがあります。萩峯くん、緒方くんたちも大活躍してくれました。
私はそれまで自分のやってきたことと、地域住宅計画策定のときに参画し、活躍してくれたその取り組みを地元に学ぶ地元学と名付け国内外で実践しています。

すべては延藤先生の水俣登場から加速したのです。
この恩は忘れません。改めて感謝し、祈りを捧げます。

地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎



[28] 延藤さんありがとうございました

投稿者: 益井博史 投稿日:2018年 3月31日(土)19時25分39秒 opt-183-176-107-128.client.pikara.ne.jp  通報   返信・引用

 ご案内いただいた「延藤安弘先生を偲ぶ会-おわりははじまり-」に残念ながら参加できません。なので、延藤先生が、京都大学の助手時代、ご指導いただいたり、時間を共にさせていただいた(私は、その中の最後半の時期でした)、あれこれを思い出されるままに記したいと思います。
 これまで、投稿された方の内容と雰囲気が随分異なりますが、ご容赦を。
 
                             ・・・・・
 延藤さんと数人で神戸市役所を訪れた時、EVに乗って6階のボタンを押すところを間違って誰かが5階のボタンを押したら、延藤さんが「4階と6階の間に誤解が生じましたね」と仰って、EVの中で笑いをこらえたこと。

 
 建築学会論文の追い込みで、ゼミ室で清書(当時は手書き)をしていた時、延藤さんがクラシック曲の口笛を吹きながら廊下を通りかかり、そのビブラートがものすごく、おかしくて笑いが止まらず、清書がしばらく中断したこと。
 
 須磨ニュータウン内の幼稚園の横を通りかかった時、園児の1人が「えんどうせんせいがきてはる」と言ったのを聞いてびっくりしたこと。
 
 修士論文指導で、「計画系の論文でも、ストラクチャーが大事なんや」と仰っていたこと。
 
 ゼミのレジメの下半分が埋まらなかったので、笠木透の「私の子供達へ」という歌の歌詞を書いていたら、延藤さんが興味を持ってくださり、ちょうど持っていたカセットテープで曲を聴いていただいたところ、後日、建築学科の図書室で事務をされていた奥様にお会いした際「レコードを買って、繰り返し繰り返し聴いている」と教えられて嬉しかったこと。
 
 大風邪で寝込んでしまい、あじろぎ横丁のグループインタビューに参加できず、やっと治り研究室でお会いしたら開口一番「ますい君、氷嚢して寝転んでいてでも、聞く価値あったで」と言われたこと。その後、体も心もあまり強くない私に、年賀状で「貴君の現状をひらくとっくみ合いに期待しています」と励ましていただいたこと。
 
 高知県庁に就職し、しばらくのこと。畠中智子・畠中洋行さんの行う、入居者等対象の県営住宅建て替え計画ワークショップの担当となり、洋行さんが延藤さんにワークショップの様子を話された際、延藤さんが「ますい君が担当やと、ワークショップがそんなに面白くなるんか」と言われた、と後で洋行さんから伝えられ喜びが子供のように込み上げてきたこと。
                              ・・・・・

 延藤さん、不出来な教え子なのに、様々なことを与えてくださり、本当にありがとうございました。教えていただいたことを直接にはほとんど実践できていませんが、「計画マインド」は忘れずに心の中に熾火のように持ち続けていたいと思っています。

 
 ご冥福を心からお祈りします。



[27] 延藤先生へ

投稿者: 竹内麻里子 投稿日:2018年 3月 4日(日)22時06分2秒 softbank126027000110.bbtec.net  通報   返信・引用

延藤先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
先生はいつも温かな眼差しで、情熱に溢れ、とてつもない行動力で接してくださいました。いつでも元気な先生という印象が強すぎて、亡くなられたことが未だに信じられません。
私は大学生の頃に、延藤先生の幻燈会に初めて参加しました。ユーコートの話に衝撃を受けて、まちの縁側MOMOにお邪魔するようになりました。その後、先生から愛知産業大学大学院への入学を勧めていただき、2年間という短い期間ではありますが、先生のお仕事のスタッフと大学院ゼミ生として、本当に濃密な時間を過ごす機会を与えて頂きました。
延藤先生からたくさんのことを学ばせて頂いたことに深く感謝いたします。先生の教えを支えに歩んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。



[26] 台湾渓洲部落からのメッセージ

投稿者: 台湾新北新店渓洲部落住民および国立台湾大学渓洲部落デザインチー 投稿日:2018年 2月28日(水)22時45分19秒 114-32-123-83.HINET-IP.hinet.net  通報   返信・引用

敬愛する延藤安弘先生が去る2月8日朝病気のため逝去されたとの報に接し、渓洲部落一同、心よりお悔やみを申し上げます。

延藤先生からは、2008年に初めて部落にいらっしゃって以来、惜しみないご指導ご鞭撻、サポート、そして愛を賜ってまいりました。また、長きにわたって渓洲部落の新住宅建設にあたり、部落の生活文化から部落の価値を明らかにされ、全身全霊をかけて親身になって部落のためにお力添えをくださりました。
延藤先生は、渓洲部落をその隅々に至るまでよくご存知なのはもとより、原住民のふるさと花蓮にも足をお運びになり、原住民の生活を身を以て感じるとともに、そこに溶け込んでいらっしゃいました。
延藤先生の魂は今でも渓洲部落にあって私たちを見守り、渓洲部落の新しいすまいが無事に完成するように加護してくださっています。延藤先生に対する私たちの想いは言葉に尽くせるものではありませんが、この悲しみの涙を力の源として渓洲部落コミュニティー建設が一日も早く成し遂げることが、延藤先生へのせめてもの恩返しとなればと願っております。
延藤先生、本当にありがとうございました。先生は私たちの天使です。天国でも穏やかで幸せな日々を過ごせるよう祈っております。

台湾新北新店渓洲部落住民および国立台湾大学渓洲部落デザインチーム一同より

(リンクは中国語原文です。日本語版は宗田昌人による翻訳)

https://www.facebook.com/ShijouCommunity/?hc_ref=ARQxORtF7P3Ym1lEFzPuW0o8_IwRoTwpw7cKY47wFeE1vVm6vtyVS9hc6Ms1qw-1EJU



[25] 延藤先生へ

投稿者: 川澄一代 投稿日:2018年 2月25日(日)18時04分36秒 p7902c56c.tokynt01.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

恩師、延藤安弘先生が2月8日(木)に永眠されました。

先生には、技術を超えて、生き方や生きることの意味を 教えていただいたと思っています。

つい先日まで元気に全国を飛びまわっていた延藤先生。

入院された際にも、また元気になって幻燈会をされるのでは ないかと信じていました。

今は、ただただ悲しくて、涙が溢れて止まりません。

あんまり泣いてばかりいると
「おまえは何を目指して生きるんや!
それがなかったら、息してても死んでるのと同じよね。
それがあるなら泣いてる暇なんてないよね。」

と叱られてしまいそうですが・・・。


先生と一緒に、風土景の種となるような建物を 設計するのを夢見ておりました。



早々に、いつもの笑顔で元気な いよちゃん に戻り、
設計活動に邁進したいと思いますので、見守っていてください。



ご冥福をお祈りいたします。



[24] 正統的周辺参加

投稿者: 戸村達彦 投稿日:2018年 2月22日(木)22時44分43秒 KD113154013061.ppp-bb.dion.ne.jp  通報   返信・引用

取組む姿勢、紡ぎ出される言葉、注がれる眼差しから多くのことを学び、それはすでに僕の一部となっています。
本当に、ありがとうございました。



[23] 映画監督 今西祐子さんより

投稿者: 田谷孝幸 投稿日:2018年 2月22日(木)21時11分7秒 210.172.220.3  通報   返信・引用

高山市が3年前、制作した映画「きみとみる風景」で監督、脚本を務めていただいた東京在住の今西祐子さんから延藤さんへのメッセージをいただきましたので代わってお伝えいたします。

(以下、今西監督より)
延藤さんが急逝されたとは…言葉もありません。
謹んでお悔やみ申し上げます。

「きみとみる風景」をご覧いただいて、映画について深く深く感じていただいたことは、本当に嬉しかったです。
私が言葉で伝えきれない高山で感じた様々なことを、映像から汲み取っていただけたのは、延藤さんには伝わったのだと大きな励みになりました。
お会いした回数はわずかではありましたが、偉い先生と存じていましたがあの屈託のない笑顔でお話をさせていただくと、
とても親近感がわいて、あたたかな気持ちにさせていただきました。

あの延藤先生の笑顔とお人柄に触れた時に思ったのですが、延藤さんはきっと人と人とを繋げてくださる使命もあったのかもしれない、などと勝手に思います。

ふるさとがない、住んでいる町に愛着をもったことがない、と思っていた私でしたが、町つくりの大切さを教えていただき
住む場所をもっと愛したいと思うようになりました。

今西祐子



[21] やがて大きな花が咲く

投稿者: 四尺 美帆 投稿日:2018年 2月22日(木)14時53分49秒 p824227-ipngn14101marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp  通報   返信・引用

延藤先生へ

何処の馬の骨ともわからない私を指導してもらいありがとうございます。
私が先生に初めてお会いしたのは2004年の名古屋のシンポジウムです。
当時の私は、幼少期の遊び場がバブル期にマンションへと変っていった事に違和感を覚えて、建築や都市工学を専攻していました。
人の気持ちが置いていかれたまま、お金のために急速に進む開発行為はどうすれば止められるのか。大人たちから見守られて育った幼少期の団地のような空間はどうやったら作る事ができるのか。
大学の講義も設計演習もピンと来ないまま、卒業論文を書く時期になり、苦し紛れに目に飛び込んだチラシのイベントに出かけたのです。
延藤先生の幻燈会でイエルク・ミュラーの絵本「変わりゆく風景」や高知県赤岡町のまちの人たちとのやりとりを見て、探していたものが見つかりました。
「まちの縁側」という様々な個性が集い良質的なコモンセンスが育くまれる曖昧な共用空間に答えが見えた瞬間です。
まちの縁側育くみ隊に入って、事務局のあったMOMOへ出入りし、サツキとメイの家のような橦木館で個性豊かな先生によるまちの縁側大楽へ参加しました。
コレクティブハウジングやコーポラティブハウス、参加者を巻き込むファシリテーション、KJ法やワークショップ。どれも大学の授業では扱われなかった、自分の求めていたものでした。

みよしまち育て塾
延藤先生の持つ魅力的なプロジェクトの中から、卒業論文の題材に愛知県三好町(現在はみよし市)の「みよしまち育て塾」紹介してもらいました。
まちや暮らしに対する様々な人の想いを知りたかったので、参加者の方や町役場の方にも貴重な時間を頂いて、インタビューをさせてもらいました。学生ばかりの郊外型キャンパスで過ごしてきたので、たくさんの世代の人たちとの対話は勉強になりました。ゼミを勝手に飛び出して、延藤先生の絵本部屋に転がり込み、論文の書き方もわからないのに、やる気だけあって、今振り返ると自分の至らなさや無計画でたくさんの人を振り回した事を恥ずかしく思います。こんな自分にも真剣に深い話までしてくれた三好町の方々や面倒をみてくれた育くみ隊の皆さまに感謝しています。延藤先生も時間のない中、出張前の朝7時コメダ珈琲でゼミを何度もしてくれました。皆さまの真剣なインタビューの内容には感心してもらえましたが、論文の構成や考察などはこってり絞られました。
情熱を持って渦を巻き起こし、生まれたつぶやきを生け捕りし、楽しいストーリーに編成して、展望のある縦読みにまとめるワークショップを日常のようにこなす先生の偉大さを改めて感じます。好き放題やらせてもらった論文は私の知りたかったことで詰まっていて、今でも宝物です。

就職で上京してからも時間の許す限り、ワークショップや愛・地球博などへ参加していたのですが、色々無理が祟って行けなくなりました。具合を心配して先生が東京駅の丸善でご馳走してくれたハヤシライス、嬉しかったです。
目標ばかり大きく持って、改革するんだと息巻いて飛び込んだ職場で、自分の学んだ事が通用しませんでした。嫌いで批判してきたモノ・カネ・セイドに対する正しい知識が不足していました。昨今コンプライアンスの重要性が認知され、ヒト・クラシ・イノチを守るためにもモノ・カネ・セイドは必要なものだと痛感しています。
いつか恩返しするからと、好きなだけ借りた懐に何も返せないまま先生の旅立ちを見送り申し訳なく思います。
先生のスピードに全然追いつけませんでしたが、先生からもらった種はまだ持っています。あちこち行きたくなる気持ちはわかるけど、じっと止まってやる事も必要なんだと言っていた先生。未だに休んでばかりですが、種を蒔く土壌を小さくても少しずつ耕そうと思います。


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